『人形』を用意しろ。それを平家滅亡の贄に。
そう命を下した、兄上の目線がふと、自分の傍らに佇む黒い法衣に注がれた。
そして、その漆黒の翳りの下でまるで自分と示し合わせたかのように
下弦の月のように薄く、兄上の言葉を受けて微笑みの形を作る。
「全ては九郎殿の策略のままに。薬師の真似事をして、平家に潜入するのは
難しい事ではないと思いますよ。ご安心下さい。頼朝様。」
その言葉に満足そうに頷く兄上に、それを見て殊更にっこりと微笑を深くする
弁慶に、言葉を失いながらも頷くほかなかった。
++++++++++
「どういうことなんだ!!!」
「鎌倉殿のお望みは叶えて差し上げるのが、源氏のものの道理でしょう。
御弟、九郎殿はそのようにお考えだと幾度もお聞きしましたので。」
差し出がましい真似をしたというならすみませんでした。
そう言って頭を垂れる弁慶の表情は見えない。
「情報が必要なのはわかる。信頼性のある情報は何にも変え難い勝利の条件だ…だが。」
兄上は『人形』といった。『贄』と。その言葉に隠された意味。
兵法以外にはとんと弱い自分でも、容易に想像がつく。
意識の奥深く、もう思い出したくもない過去に沈めた感覚が
一瞬皮膚を焼いて、ぞくりと肌が粟立つ。
「…そんなことはお前にさせられない。」
「…僕、では信用できませんか?」
その何もかもを理解したような深い眼差しが、ゆっくりと俺を捕らえた。
「信用の問題じゃない!信用しているからこそ心配しているんだ。それを勝手に!!」
怒りの声音を受けて怯むどころか、
それはふわりと微笑む時のように、でも酷く凶暴に細められる。
「では、どうするというのです?
……代わりに貴方の想い人でも捧げますか?」
「…な…!?」
「鎌倉殿のこの望み。誰かに代わりを任せるのなら、絶対に裏切る事のない…いや、違いますね。微笑みながら平家を裏切り、嘘と策略を舞うように弄する'舞姫'を用意しなくてはいけません。
…貴方のような人がそのような方を想うとは思えない。また、何かあったときに…万が一のことがあったときに、平家の子かわからない胎を貴方は抱きしめることができますか?」
意図された揶揄。それは一番触れられたくない部分をやんわりと
撫で上げる。刺されるより性質が悪く、嫌悪で視界が揺れる。
不意に今は遠くなった母の面影が過ぎり、苦い。
ぎり、と奥歯を噛み締める音を聞いて、目の前で言葉の凶器を振るった
男は、本当に悲しそうに眉を寄せた。
「…すみません。すみません九郎。あなたの優しい。優しすぎるほどに。でも、どうしたら効果的か、考えてもらえるように一番貴方が傷つくであろう言い方を選んでしまった僕を赦してください。」
「…俺は、お前を心配しているんだ…。敵の根城に独りで詮索に出かけて、なにかあったらどうする。」
「大丈夫ですよ。独り、だから平気です。」
「…………」
何事もないように、ただ明日の空模様でも言い当てるかの如く。
たまに、こんな風にひどく無謀に肯定する弁慶の笑顔はなぜか好きになれない。
全てを諦めてしまったかのように、全てを突き放すように
今にも消えてしまいそうに儚く微笑むから。
泡沫のように微笑んだ、唇が不意に。
「…試してみますか?」
言の葉を紡ぐ。それは、音に聞く呪詛のように。
いや、そんなものよりも不吉に甘く己の心に染入って。
「……どれだけ、このような事柄に僕が適任か、ということを。…その身で。」
「…なにを…」
「人形になる前に…君に」
不意に強い力で引き寄せられて、ぐらり前のめりに傾く。
拒絶しようと腕を伸ばした瞬間、塞がれた唇からの甘さだけが
現実味を帯びて喉を伝った。
同じ液体で濡れた唇が艶やかに微笑む。
その僅かな動作が、やけに優美に…残像が目に焼きつくほど。
上がる息まで糖度を増して視界が狭くなっていく。
「…仕損じるなんてしませんよ。見くびらないでください」
「…ふざける…な…おまえ…なにを…」
払いのけるはずの腕は、縋るように黒い法衣に留まったまま。
体よく言えば、酩酊の中で俺はその声を遠く聞いた。
「…くすり、ですよ。九郎は、甘いの…好きでしょう?」
婀娜めいた指が誘うように喉に伝った薬液を辿る。
そこだけ火に炙られたような感覚が走って肩を揺らすと、
霞む視界の中で弁慶がまた、消えそうに、哀しそうに微笑んだ。
「そんな顔、しないでください」
「…っつ…俺は…」
儚いから守りたくて、…でも憎いから壊したくて。
衝動が眩暈の形をとって前後左右の判断力さえ奪っていく。
思考も理性も剥いでいく。
…これが、彼を「人形」にしてしまう最初の手だとしても。
ただ、手を伸ばしたくなった。
そして、これが彼自身が周到に導いた皮肉だとしても。
++++++++++
白い首筋に噛み付けば表情の読めない微笑に一瞬、苦悶の欠片が浮かぶ。
無理に繋げば、声を上げない喉から嫌悪の吐息が厭な音を立てる。
闇に慣れた目が微かに震える睫のゆらぎを垣間見る。
そんな彼のどこが、どこが「人形」なのか。
「…く、ろう…。」
突き上げられ、苦痛に細められた瞳は、涙の膜をたたえて月の光に淡く光ったように見えた。
普段から甘く響くその声音は、もはや毒のように彼を挿し貫く自らの身体を、
思考さえも麻痺させて。
どろりとした雄の欲望のみに駆り立てられるこの身の髪を辿り、
首筋に回された腕が導く濡れた口元からは、唯、許しを請う囁き。
…この本能に任せた行為に、ではなく
これから彼の身をもって行われることに対しての。
「…大丈夫、ですよ。どんな手を使っても貴方に…必要なことなら」
「……俺…の…?」
「僕が…貴方のためにしたいんです。…許してくれますね?」
頬に添えられた、慈しむような掌。
そこだけは、この歪んだ情事とは隔絶されたもののように穏やかに。
「……だが…お前を……」
…そう言って、ただ無心に彼の身を案じていた先程までとは異なる自分が
この躯に潜む陰に気がつく。
…その掌が。
例えば誰か別の者に縋るのか。
同じように胸に唇を寄せ、声にならない震えを見せるのか。
知らない、誰かに。
「でも、その前に…」
これ以上秘めることなどないだろうに、その唇が触れるほどに近づけた耳元で微かに。
(もうこれ以上他の誰に奪われるものがないように)
「九郎が……こわして」
囁きよりも吐息の中に溶け込んだ懇願は意識を侵食して己の奥の昏い情念を揺さぶった。
私欲の、一番汚い感情を望まれ、赦されたような気がして
魅入られたように、深く腰を進めれば弁慶の口から溢れた悲鳴に似た音が酷く頭の中に木霊した。
いつもは理路整然と物事を論じるそこが言葉を失い鳴きつづけるのを
もう見たくないからかもっと直に感じたいからか
混沌とする心を置き去りにしてただ、貪るように口付けた。
■■■■■■■■■■
達する瞬間、強く瞳を閉じた九郎は、僕が瞳をうっすらと開け
その恍惚の表情に酷く安堵したことなど知る由もない。
『「人形」を用意しろ。』
それを平家滅亡の贄に。
九郎はそれが、僕のことだと思っているに違いない。
兄の命令に従い、僕を差し出し、自らの最大の屈辱であろう
身体を開かせて。その恥辱さえ全て源氏のために捧げさせたと
悔恨と懺悔に満ちているのだろう。
でも、それは違うのですよ。
貴方の優しい心から生じるであろう僕への贖罪の念。
そして、僕がもたらす平家を打ち倒すためのささやかなきっかけたち。
それで縛り上げただ、鎌倉の地で座するあの人のために
あのひとの身代わりになって戦場で血を、涙を流す人形。
それは今、眉を寄せたまま深く瞼を閉じる貴方自身。
命を下したときに目をいやらしそうに細め、僕ではない自らの血を分けた
弟を見据えたの視線の揺らぎに気がついたとき。
その目は雄弁にこの純粋な人を絡めとる操り糸を手繰り寄せていた。
…もう、全ては始まっていたのだ。
僕などはただ、捨て駒の一つに。それはこの人も同じで。
瑠璃人形と菊人形。
お互いに絡み合った操り糸を振りほどく事も出来ずただ、
肩を寄せ合うしか術はないのかと。
計略をめぐらせようと汗で湿った前髪に指を絡めるけれど
寒さを感じさせないように肩を抱きこんだ九郎の腕が覚醒する時のように
かすかに戦慄いたのを感じてゆっくりと瞳を閉じる。
くたりとその腕に身体を沈めると、しばらくして掠れた声が何かを告げた。
「…すまない…。」
…謝らなくてはいけないのはこちらなのかもしれない。
源氏への揺ぎない忠誠の幻想を与えるため…そして、九郎の傍に
誰よりも傍に近付くための願ってもない好機だと打算をめぐらせる
この心は既にこの真っ直ぐな人を欺いているのだから。
伏せた瞳の向こう、純粋な想いを込めて頬を撫でる九郎の指先に
ちりりと後悔にも似た感覚。
それでも、この人の与える感覚は何故か何もかもが心地よくて。
瞼の裏、漆黒の中、蔦のように絡まりもつれる運命の糸。
紐解く指は自らか、それとも彼のものか。
ただ染入るように紅に濡れてゆくけれど。
ああ、戦を終わらせた後、せめて償いに、
この可憐な人だけでも掬い上げてくれる蜘蛛の糸を捧げられたならば。
僕の最期に、この人は今と同じように綺麗な指のまま優しく頬を
撫でてくれるでしょうか…?なんて。
ゆっくりと睫を震わせながら、焦点を合わせる動作の中、
色のない世界で、そのか細い希望を探した。
041. 「お人形」
ヒィっ!!1行目から人身御供宣言で申し訳ありません。(平謝り)
これがファースト九弁です。ファーストにしてこの展開…あああああ。(悔恨)
ほのぼのラブラブ九弁というチョモランマのがけっぷちでファイト一発しているのでそれまでのつなぎとして。
…本当は、このお話しで弁慶には薬なぞ使わずに口だけで九郎を篭絡してほしかったのですが
そのあたりがファースト九弁の名残ということで…。ういういしー。(あたしが)
2005/11/29 UP