「少し、付き合わないか?」
よい酒を手に入れたから、と九郎が僕を自室へ招き入れることは珍しい事ではない。
これからの戦のこと、鎌倉のこと、京に現れた神子のこと。
大事なことも他愛もないことも生真面目に溜め込んでしまいがちな九郎の性格上、
酒の席の語らいで息を抜くことも必要である。

なにより『源氏』のための会話ではなく『八葉』としての言葉でもなく
ただ九郎自身の向き合う相手として僕を選んでくれること。
その時間は僕自身にとっても心地よく好ましいものだから。

杯を傾けながら九郎は今日も何気ない話をして、笑って、膨れて、考え込んで。
ふんわりと幸せで温かい時間は澄んだ空の月を大きく傾かせていた。



050. 境界



「……ああ、そろそろ僕は戻りますね」
格子から手を伸ばす月影の長さはそろそろ潮時であることを物語っている。
後ろ髪を引かれるような感覚に負けないように口にした言葉に
九郎は少しだけ上気した頬のまま困った顔でこちらを見ていた。

「……どうしました?」
「いや、急ぎの用がないならもう少し休んでいけばどうだ?」
「……?」

九郎の不可思議な発言に小首を傾げる。
肩を並べた状態で、酔っているのか腰に腕を回してくる九郎の
可愛らしい甘えに苦笑を禁じえない。

「……早く休んだ方がいいのは、君の方かもしれませんよ?」
「……そうなのか?」


それでも腕を離さない九郎に焦れて、やんわりとその腕に触れながら立ち上がろうとする
とその瞬間、何故か目の前の世界がぐらりと揺らいだ。
「…………っ!!」

崩れ落ちたのは先ほどまでの温かい場所。

「……これで、わかったか?」
白く染まった視界とそこに響くいつもの声音に
再びしっかりと九郎の腕の中に引き込まれたことを気づく。

「っえ……?」

…これは一体どういうことなのか。
頭も感覚も正常のはずなのに、肢体だけに力が全く篭らないこの状態は…。

「……、っ。」

後ろから抱え込んだまま、遠慮なしに頬や首筋に触れてくる九郎の掌がいつもと違って冷たい。
それは誘う目的ではなく自分の熱を拡散させようとしている動作だとようやく思い至る。

……酔って、いるのだ。
九郎ではなく自分が。それも身体だけ。


「……九郎、だいじょうぶですから」
「自分ひとりで立てもしないくせにか?」
「さっきは少し驚いただけです。もう、だいじょうぶです」

腰に回された腕は堅固。解けないのはうまく力の篭らない指先のせい。
むずがるように全身で拒絶を示せば、ふう、と九郎らしからぬ溜息。

……ためいき。九郎のくせに。

「頭だけがしっかり覚醒しているのも可愛くないぞ」
「おや、少しでも僕のこと可愛いとか思ったことあったんですか」

くだらない九郎の言葉尻を茶化せば、先程とは違って
首筋で耳朶で低い声音を吹き込まれる。
「……あるに決まってる」

いつものように透明な九郎の声ではなく、
その中に揺らめく夜の影に、…雄の声に、ぞくりと鳥肌がたつ。
「だから、……こんな風にお前がなってないか。他の誰かに感付かれてないか……酒の席はいつも気がかりでならないというのに」
「……」

……少しだけ、口惜しい。
九郎に心配されて、見守られて。想定通りにその腕の中に収まっている。
自分という存在のなんと不甲斐ないことか。
なによりも、頭は正常に働くのに(……とせめて考えたい)
あの九郎の何気ない言葉に、愛撫ともいえない犬でも愛でるような掌に
こんなにも心が乱されるなんて。
…きっと、それもすべて酔いに誑かされて熱くなっているこの身体のせいだ。

とろりとした陶酔に徐々に思考すら侵食されて、抵抗の手を緩めれば
九郎はまるで雛鳥でも包み込むように優しい所作で抱きしめてくる。
眠ってしまったちいさな子供でもするように、柔らかく褥に横たえられて
肩に軽く触れる慈しみの手つきにゆるりと目を細めた。

「……九郎……て……?」
「……?どうした弁慶」

眠りにつく直前の、吐息に似た不鮮明な言葉。
それを聞き取ろうと耳を近づけてきた九郎の指に優しく触れて。

「……し……て?」
「……?……?!なっ!!!」

耳朶に甘く囁きかければ、血相を変えて(勿論赤く)逃げを打つ膝。
そこにことりと頭を預けることで退路を塞ぐ。
「……だめ……ですか?」
「っ……!何を馬鹿なことを言ってるんだ!!」
動きを遮る僕の頭を退かそうと伸ばされる手に縋って、唇を寄せると
炎にでも触れたかのように彼の体が震撼した。

九郎にしてみれば介抱をしているはずの相手を放り出すこともできず、
かといって『いただきます』と素直に据え膳に手もつけにくいこの状況。

……八方塞りだ。
とてつもなく困ったように、不機嫌そうに寄せられた眉が大声で心境を叫んでいるかのようで。

そのあからさまな狼狽の様相に、望む熱は満たされる事はなさそうなのに…
…ああ、このこみ上げるくすぐったい満足感はなんだろう。

「……うそ、ですよ」
「……は?」
「君が僕も知らない僕のことを知り尽くしている風だったので」
…なんだか悔しくてちょっと意趣返ししたい気持ちになっただけです。

「……っ!!いいかげんにしろ!」
「……っぅ!!」

そう告げる途中で勢いよく地面に額を打ち付ける音が脳内に木霊した。

九郎の膝から振り落とされた鋭い痛みに頭を抱えようとした
その手をとられて褥に縫いとめられる。

「そういう冗談はやめろ……!だから心配なんだ!!」
「……くろ……」
「酔った弾みで誰か他の奴に…そんなこと言って、『嘘でした』で済む場合ばかりじゃないぞ!」
覆い被さるように囲われたまま、近づけられた口からの大声は軋む脳天に不快に響くけれど。

「……九郎……ねえ、聞いてください」

その怒号に潜む真心や、真摯な想いや…独占欲にも似た感情は
今日口にしたどんな美酒よりも甘く蕩けるように、…溺れる。

「……僕がこんなふうになるのはどんな時だと思ってるんですか?」
「どんなときだ?!」
「……戦況は落ち着いていて、役目も一段落して……」
……君とふたりでのんびりできるとき、だけですよ」

酒というのは不思議なもので
任務の間、謀の中、気を張り詰めているときにはこの身を巡ることすらない。

己の力の篭らない手を見つめて、可笑しくてどうしようもなくて微笑む。
だってこのくたりと力を失った身体は『九郎のとなり』ですっかり気を許してしまっている証拠なのだから。
…悔しいからそこまでは伝えてなんかあげないけれど。

「そうそう君以外の前で醜態を晒すわけにはいきませんからね」

とだけ言葉にすると、先ほどまでの剣幕はどこへやら
その言葉の意味すら届いていないようなきょとんと無垢な視線。

「だから、『嘘でした』で済まなくてもそれはそれで嬉しいものなんですよ」
酒の力とはいえ身体の自由を奪われて、こんな風に力ずくで君に組み敷かれるのも悪くない。

「……。……?!……!!!」
徐々に言葉の真意は染み渡る。
九郎と九郎の下に横たわる僕のこの状況。
再び茜さす九郎の顔に婀娜めいた微笑を向けると
不貞腐れた子供が玩具を放り出すように腕の中から解き放たれて
今度はこちらが膨れる番になる。

「……意地悪ですね」
「……五月蝿い。……それにお前のそれは『醜態』じゃなくて『媚態』だ」
何にせよ十分に気をつけろ。
……なんて背中を向け、項を赤く染めたまま説教をするものだから。
今度はこちらが毒気を抜かれてしまう。

くすくすと笑いを洩らせば、馬鹿にされたと思ったのか
これでもかとばかりに赤く染まった面差しがぐるりと剣呑に振り返る。
「……痛っ。ちょっと九郎……!」
むすっと膨れた唇は額の擦り傷へ仕返しとばかりに落とされた。


 
050.境界 

境界 = 酔うか酔わないかのボーダーライン
九郎は『ざる』で弁慶は『わく』の上戸カップルだと信じて疑わないのですが、
その一方弁慶さんがくたくたに酔っ払ったら可愛いかも!という妄想から。
でも本当に人間気を張っていると酔わないものです。人体の神秘!
くたくたの弁慶が見られるのは九郎だけ!だったら少しはラブでしょうか…。(腰引け気味)
(元旦早々ラブいちゃの難しさに空中2回転で叩きつけられる幸先のよい2006)

2006/01/01 up
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