058. 神様
「……かみさま、たすけてください」
初めて聞いた、『弟』の声がたどたどしく紡ぐのは
祝福さえしてくれなかった相手への懸命な祈りのことば。
「……かみさま、……たすけてください」
その言葉だけを教え込まれた傀儡だったらどんなにいいか。
この薄暗く押し込められた座敷牢の中で育まれる事すらなかったのか
感情も抑揚もなく淡々と。
激しい動揺は、朽ち始めている床の鈍い悲鳴となってその面を振り返らせる。
無造作に刃で切り落とされた稲穂色の髪。
白く透き通り、くっきりと浮び上がる青い血管でさえ何かの細工であるように思わせる肌。
……己の母に、生き写しの眼差し。
けれども明らかに色素の薄い、その色。
なによりとろりと夢でも見ているような、泡沫の瞳に激しく頭の中をかき回される。
ああ、あまりにも
凄惨過ぎて……美しいとさえ。
こんな幼気で憐れなこどもを、
どうして別当は、…父は『一族の種の保存』のためだけに
この地獄よりも冷たい部屋の中で虐げつづけることができたのか。
…微かに最愛の妻の胎を食い破ったこのちいさな鬼への憎悪が
垣間見えて吐き気すらこみ上げる。
「…かみさま?」
やせ細った体から搾り出されるようなか細く高い声が、
尋ねるような声音をもってこちらに投げかけられる。
それだけで、両の足が戦慄く。
必死に笑顔を作ろうとする
それでも顔はひきつけをおこしたように歪んだまま動かない。
「…かみさま」
己の背後、開け放たれた戸から差し込む強い光。
熊野の、眩しいまでの夏の光。
ああ、多分あの子供からは逆光で見えないだろう。
その圧倒的な姿に懸命に対峙しようともがく、自分の顔も、握りつぶす震えも。
「……いいや。にいさまだ。鬼若」
驚きか、少しだけ見開かれる瞳に。その澄んだ色に。
ああ、できるのならこの子供の望む「かみさま」になりたいと。
あの時、そう切に願った。
それが、あまりにも大きすぎる願いで
いつかこの身すら滅ぼすきっかけになろうとも。