094. 血縁


「……姫君の誘いを断ったらしいね」

空は垂れ込むように重い雲で満たされている。
身を切るような風の中、五条の橋に佇むその背。

「…ええ、すみません」
振り返りもせず、界隈を見下ろす。その表情はいつものように読めない。
「可哀相に萎れるほど淋しがっていたぜ。望美も、九郎も。みんな。」
「……すみません。…でも、興味深い風習だとは思いますよ」
そのひとが生まれた、その日を祝う。それが神子が来た遠い世界の『誕生祝い』の慣しだという。

「でも、知らなかったな。今日がアンタが生まれた日だったなんて」
「…ええ、僕もあまり意識した事はありませんでしたよ。ヒノエだって、そうでしょう?」

「…まあ…そうかもね」

以前、同様に神子が言い出して九郎の誕生を祝ったことがあった。その時まで、確かに『自分の生まれた日』など意識することなどなかった。だが、この戦乱の世でその身の生存とひとつ年重ねることのできた悦びを皆で分かち合える催しが不快であるはずもない。

だから、子憎たらしい程『和』を大切にするこの男が姫君の誘いを固辞し、はぐらかすように館を後にした理由にほんの少しだけ興味があったのだ。

「少し、驚いただけです。僕も祝ってもらえるなんて思わなかったから」
「ふーん。なんでまた……」

「……今日は別の意味で特別な日ですから」
忌まわしい日。ぽつりと零した冷たい声音は、吹き荒ぶ一陣の風のように心を乱す。

「ヒノエなら聞いているのかな?…貴方の…」
「……ばーさまの命日だって?」
「…………知ってるんですね」

ただ酷く冷たい日。親父に手をひかれ、花を手向けた遠い記憶が頭を過ぎる。
「…その人は、泣きながら泣かない僕を産み落として事切れたそうです」
「……母の抜け殻の中、血の海から這い出た日です。だから胸に刻んで」

それは生まれてきたことすら罪であるというように深く魂にまで焼き付けて。

「微笑んで偽りででも祝福を受ける、そんな日ではないんです」

貴方にならわかるでしょう?
熊野にとってそれは惨禍であったはずだから。

溢れた羊水の中に蠢く髪は、血の紅に染まっても紛うことのない黄金。
吉凶の証と恐れ戦き、封じても尚、熊野を動かしつづけた稲穂色。

…聞かなければよかった、と思った。
同時に、ふざけるな、自惚れるな、思い上がるな、とも。

「そんな昔の事、未だに根に持ってるんだ。頭がいいね」

こいつから俺に連なる血の繋がりを、一族の枷を誰よりも求め、誰よりも疎んじている。
…それは、目の前で曖昧に笑う身体の中に矛盾しながらも寄生し、滲み出る。
強くて儚く、やり場のない感情。

だから嘲笑って見せる。遠いから。にくいから。…どうしようもないから。

「……アンタの義務は、厭でも芝居でも嬉しがって祝福を受けることだろ」
「………」

揺れるような、強請るような眼差しがこちらを見据える。
それを受けて、唇は勝手にあいつの望む言葉を紡いだ。
これは、突き放す…儀式だ。

「アンタの罪滅ぼしのために俺の大事な姫君の顔を曇らせるのは許さないし、それに」

多分、弁慶から見たら滑稽なまでに不敵な笑みを浮かべてみせる。

「…今の熊野はもうアンタでは動かないよ」

一瞬零れそうなまでに瞳を見開く、動作は驚愕の色をにじませて。

「……そうでしたね」
でも、ふ、と溜息にも似て息を吐き出す、それは微笑の類か、安堵だ。
ともすれば傷つける言葉を俺に望む。それを聞いてうっすらと悦ぶ。
幾度も幾度も繰り返す、たったひとつこの叔父を微笑ませることのできる儀式。

ただひとつ、気づかれないように盛大に空に向かってため息を吐き捨てた。
…ああ、こんな茶番。あまりにも馬鹿げている。

あいつが今まで抱えつづけてきた妄執は、きっと消えないだろう。
どんな言葉を連ねても、世界中のすべてがそれを忘れても。
望む言葉の刃で、強請る制裁で傷つけようと。

…あいつ自身が、自分を赦すまで。

だから、俺が心を砕く必要なんてない。無意味なんだ。
無駄、なんだ。たとえ懇願された言葉だとしても
どんなにきつい口調で問い詰めようと、泣きつこうと、断罪しようと
俺の言葉はこいつの奥深くになんか届かない。

「……ヒノエ」
ぼんやりと虚ろな声が、名前を呼ぶ。

思考の淵に落ちていた視線を上げると
そこにあった面は、普段の人のいい偽者ではなかった。

時折、こんな不透明で抜け殻のような顔を晒すのは
なぜか、あの御曹司の前ではなく、俺の前だ。

「なんだよ」

ざわざわとと、焦燥にも慟哭にも似た感情が這い上がる。
…なのに。

「…ありがとう」
そういって一瞬見えた硬い本性を隠していつものように笑うから。

「……け、…やがって……」
憐憫に伸ばしかけた手も、静かな怒りに握った拳も行き場を失ってしまう。

見慣れた仮面を晒されるのが不愉快で、くるりと背を向ける。
でもその行動とは裏腹に、懸命に耳を澄ませてそこに息つく音…生きている音を探してしまう。

今はただ、こうして近くでその呼吸のあとを辿ることだけ。
それだけがこの俺に赦されたもっとも近いこいつとの距離感。

 
094. 血縁 

弁慶さんとヒノエくんの関係を端的に。

ヒノエは弁慶さんにとって似て非なるものです。
ある意味九郎よりも救いを求めている相手だと思います。
そして、うちのヒノエは血縁者に可愛そうなくらい振り回されてすっかり大人思想。
こどもの顔も大人の本性も持っているくせに望んでも許容すらされない痛みを知っているからこその
アンバランス感がふたりにあったらとてつもなくもだえます。

2006/07/12 harusame
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