戦いが終わる時、その瞬間とともに自らも果てるのだと
くりかえし、くりかえしずっとそう考えてきた。
だが、その鋭く冷たい終焉を迎える事の出来なかった自分を待っていたのは
暖かく、穏やかで…誰もいない。ぬるま湯のような日々で。


それから


『…そうか。…それを、お前が、望むなら…。』
自らを断罪するか、もしくはもっと執着を見せると思っていた
九郎は市井に紛れようとするこの身をあっさりと取り逃がした。

鎌倉の理解を得られたのか、それともいい加減このような者を
身辺に置く事に嫌気が差していたのかはわからない。
裏切りを責めることも、それによりどれだけ自分が傷ついたのかさえ
一言も語ることもなく九郎はこの手を離してくれた。

「弁慶せんせー!おかーさんが、これ、べんけーせんせいにって!」
「ああ、ありがとうございます。いつもすみません。」

おすそ分けの惣菜を卓の上に置いた少女は、笑顔と明るい空気を残し、
軽やかな足取りで、建物の影に消えてゆく。
この集落の人々は、まるで不在の年月すらなかったようにこの身を迎えてくれた。
人目を少し避けながらの五条での生活は、彼に出会い、ともに過ごした過去だけが
抜け落ちたように穏やかに、暖かく流れて。

「……たまに、すべてが幻であったのではないかと思う日すらあるんです」

ひとりごちるように、呟く声は彼との歴史があったことを消さないためか、
それとも、それが今や失われたものであることを自らに言い聞かせるためか。

川辺で水を汲み、きらきらと乱反射する水面に目を細める。

そう、ただ、なぜか途方に暮れてしまったのだ。
続くはずのない生が、脈々と穏やかに流れることに。


「……弁慶」


不意に、懐かしい声に呼ばれたような気がして川面から視線を上げれば
橋の傍に白い裃を見つけて目を見開いた。
…過ぎた日に想いを馳せすぎて、幻でも見えているのかな…?
のんきな思考で小首を傾げれば、困ったようにもう一度名を呼ばれた。

「……弁慶、元気だったか?」

ころりと水をくみ上げた桶が転がる。
覆水は飛沫をあげて、勢いよくあるべきところへ還っていった。


□ □ □ □ □


「…望美が言った事を、考えてみようと思ったんだ。」
真剣な眼差し。その強い力は抜け落ちた淡く綺麗な想い出のまま。

「『戦を終わらせる』目的のために力を貸してくれたお前を、
もう俺の身勝手で縛り付けることなどできない。でも、考えたんだ。
俺は、戦う事しか知らないし、頭も…お前ほどよく回らない。だが…。」

少し口篭もった後、胸に閉まった記憶と同じ凛とした声は何かを決意したようにその言葉を告げた。
「…やはり、お前に傍にいて欲しい。」

幸せな言葉。満たされる響き。
でも。

「…どう、しましょうか。」
そんな必死な九郎を前に出た言葉は裏腹なものだった。

罪悪感で縛る事など容易に出来たはずだ。
己がこの清い人にした様々な反逆を思えば、
縛り付けられ虐げられてもなにも反論などできるはずはない。
地位でそそのかすことも、絆や信頼を逆手にとって、手放さないことも。

なのに、いまさら。
「…こんな風に、僕に選ばせようとするなんて、君は…意外と卑怯ですね。」

離れていたほんの僅かな、年月にも満たない時間。
不意に解かれた彼の手の意味を、
緩やかな生活の中で繰り返し、繰り返し考えていた。
まるで恋い慕うように、寝ても醒めても。

あの、自分に向けられる抜けるような青い笑顔を、
戦に向かう際の精悍な眼差しを、願いつづけた鎌倉の情を得られずに
焦燥に細められる瞳を、哀しみに溢れる眦を、なにもかも。

この手で抱いた愛しさは泡沫だったのだと、諦めにも似た悲嘆を噛み締めていた。
今、その全てを僕が望むなら差し出すというのだから。

「…卑怯とはなんだ。今までが、…卑怯だったんじゃないのか?
目的を同じくしたお前から、与えられるものをなにもかも当然のように受けていた。
それが、志を同じくした者同志の範疇を超えた…そんな…部分まで。」

不意に視線を逸らした目元がほんのり赤い。
そんな思考を導いた自らを恥じるように俯くかの人が、ふと。

「…そういえば、お前は何も俺に望んだことなどなかったな…。」

初めて望んだ答えが、『俺の傍を離れる』だなんてな。
ぽつりと九郎が呟く。

自分という影を纏わせるのは九郎に似合うはずもない。
けれど、不意に九郎が浮かべた仄昏い自嘲…
そんな薄闇も眩しい彼に似合うはずもなかった。
違和感で胸が軋む。

「九郎。君は僕が何も望まなかったと言いましたが、そうではありませんよ」

零れた言葉に九郎が弾かれたように顔を上げる。その視線がこちらを捕える。
絡みつくような瞳に、込められた執着に、身体の芯が知らず熱を持つ。

「何かを望むのが、怖かったんです」
くだらない懺悔がその熱に追い立てられるように口についた。

「酷く熱意を手向けて望んだ願いが世界さえも歪めてしまったから。
それ以来、…いえ、もっと前から僕が手を伸ばしたものは全て、
崩れていくのではないかとただ無性に怖かったのかもしれない。」

『暇を戴きたいんです』

「だから、僕は本当に欲しいものを望むことなんて出来ない」

戦いも、贖罪も、終わってしまった穏やかさの中で、
貪欲な僕の本性が貴方という光を消してしまわないか恐ろしくて。
でも、それでも渇望するように、我儘に君を望んでしまうから。

『戦いは終わった。だから、これから立ち上がるべき人々の手助けをしたいんです』

「……九郎、やはり誰よりも卑怯なのは、この僕なんですよ」
今更君の隣りを恐れて、慄いて…出した答え。
それでも君の傍らから引き離される道なんて、全て崩れてしまえばいいと。

遠く君を傷つけない位置から見守れればなんて、たいした欺瞞だ。
何もかも諦めたふりをして、こうして待ちつづけていたのではないのか?
九郎がまた、この手を掴んで連れ去ってくれることを。

迷いと全てを打ち明けてしまいたい衝動。
縋るような眼差しで、見上げる九郎の目はなぜか確信に満ちていた。

「…確かに、今まではそうだったかもしれない。でも…」

「お前は望んで源氏に勝利を、京に平穏をもたらした。憂う神も鎮まった。
…お前の心が望んだものが、形になってるだろう?」
「……でも、それは…」
それは笑顔だけを遺して去っていった美しい天女の恵みで。
僕は何もしていなくて。

「……お前が、そう望んだから。じゃないのか?」
だとしたら。でも、そんなことは。

「だから考えていたんだ。望美が京を離れる時の最後の言葉を」
遠く、その鮮やかな時を思い起こすかのように。そっと。
「『弁慶さんの我儘を聞いてあげて』…と。俺はそれを最初、俺の元を去ることだと思っていた。俺の傍になどもういたくないからなのだと」

「……なっ…!」
まさかそんな風にこの人が考えているなど思いもしなかった。
声を上げようとする僕を九郎が制する。その困ったような、緊張したような面持ちで。

「…でも、お前は今、『本当に欲しいものは望めない』と言った。
なら…もう一度聞かせてくれないか?」

「……お前の初めての我儘は俺が聞きたいんだ」
壊れるなんていわせない。…必ず、叶えるから。

どんな戦局にあっても、先陣を切って走り出していく九郎。
意気消沈する部隊に声をかけて、その言葉で兵たちの心の暗雲を晴らす風のような人。
…時にこの人の言葉は呪術の類よりも力を持つことがあると思っていた。

そんな九郎の力強い言葉が、心に遺された一つの欠片を溶かしていく。

「…九郎…」
「……なんだ?」
「……くろう」
「…………」

「九郎…くろうが…」

「……ん」

ほしい、と手を伸ばしたら、その意味を理解しているのか懐かしい腕の中へ。
「そうか」なんて、分かりきった風体でぽんぽんと抱きしめた肩を抱く掌が憎たらしい。

…もっと。

九郎の傍らにいた激流の記憶でも、これから脈々と流れる途方もない生の先でも
『もっと』なんて両手を広げて強請ることなんて、自分にはないと思っていたのに。


□ □ □ □ □


「……来ないのか?」
「ええ」

不服そうな九郎に微笑を投げかけて、五条の通りを二人で歩く。
「こちらの荷物をまとめてからまたお世話になりますよ、九郎」
「……お前の荷物整理はいつまでかかるかわからないから心配だ」

憎まれ口を叩く九郎は、今にもこの手を掴んで連れ去ってくれそうだ。
けれど、それを僕はやんわりと拒絶した。
「でも、昼間はこっちで薬師として働いて…では今とあまり変わらないんじゃないか?」
「……だって、僕には両方大切なものなんです」
我儘、聞いてくれるんですよね?と言葉尻を掴んで茶化すと、ぐっと押し黙り渋い顔をする。

「これから立ち上がるべき人々を助けること。それは黒龍に生かされた僕の義務です。
でも…すべきことがあっても…諦められなかった。大事な人なんです。あなたは」

ひとつだって望むことは赦されなかった。自分が赦さなかった。
目的のためなら、なんだって切り捨てた。
なのに心のどこかで本当に欲しいものに気づいてしまった。
道が分かれる時に、ひとつも選べない僕は戸惑うばかりで。
あなたはそんな彷徨う指先をとって、導いてくれた人。
ひとつでもいくつでも欲しいものを選べばいいと赦してくれた人。
そうでなくても真っ直ぐに綺麗で、愛しい人。

歩きながらも指先にそっと触れると、盛大に照れながらもぎゅっと力強く望まれて。
連れ去って欲しい。でも、このままで。
相反する苦悩に苛まれて、ゆっくりと唇に敷いたのはただ心から溢れる幸せな気持ちだった。


 
09.それから

これを書きながら可愛らしくおねだりができる弁慶さんなんて最強最悪だと思いました。
甘いのは内容ではなく、私の脳みそでもなく、何でも弁慶さんの言う事を聞いていしまう
どうしようもない御曹司だと思います。
書いておいてなんですが…あーなんだこのものすごいモトサヤ感…!(ブルブル)

2006/05/28 harusame
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