夢を、見たような気がする。

それはひどく悲しかったときの記憶。
不意に心の奥底から這い出して心を蝕む幻。

夢の中で俺はいつも泣きながら歩いている。
一人きりになりたかったのだ。
逃げ惑うように街の中を駆け抜けて、さ迷い、何度も転んで。
ぶつかって、よろめいてそれでもたどり着くのは
母と共に住む屋敷だった。

そう唯小さな子供だった俺には、あの明るい月夜にあって
どこにたどり着くこともできなかったのだ。
逃げ出したかった場所に疲れきって戻るだけ。

幾度となく、悪夢は繰り返す。


+ + + + + + + + + +


こっそりと、いつものように垣根を越えて忍び込んだ。
自分の家、に忍び込む、というのも不思議だと自分でもうっすら思う。
……普段は家人にいたずらを咎められることだけを心配すればよかったが、
今日は勝手が違った。知らぬ気配を感じて身を硬くする。


「おや…?君は」

見慣れぬ黒い旅装束に身を包んだ男が、濡れ縁に腰をかけ月を眺めていたのだ。

「……ああ。怪しいものではありませんよ。旅の薬売りです。
今日はご主人の好意で一晩宿を借りることになりました」

こちらの不躾な視線を受けて、にっこりと微笑む白い面を月明かりが照らす。
それを一言で形容するならあまりにも『綺麗』で、常世ではないような風情を醸し出していた。

…不思議だった。
あのけち臭く、矮小な男が宿を貸すのも不思議だったが、
何よりこの時刻にぼろぼろに汚れた姿で庭を歩く子供に
不審を抱かないこの男も不思議だった。

おいでと手招きするその動きに吸い寄せられるように近づけば、
濡れた手ぬぐいが差し出された。

「怪我を…しているのですか?」
「……こんなの」

なんともない。
口を尖らせて強がる。

しかし、その優しげな言葉に左膝の擦り傷がじくじくと痛みを訴えはじめる。
途中で草履を脱ぎ捨てたせいで柔らかな足の裏には小石が食い込んでいたし、
なにより……。

「……なんでもない」

その先は、考えないことにした。一番痛い、場所があることも。

「……頑なですね」

しかし、目の前の男はその頑固ささえ厭わずに優しげに笑う。
不思議…だった。他の大人はこうすると大概つまらなそうに離れてゆくのに。

手ぬぐいを受け取ろうと、右手を伸ばすと濡れた感覚が柔らかくその手を包みんだ。

「……い…!平気だ!ひとりで…っ…」
「いいえ、僕は薬屋さんですので」

いっそ胡散臭いまでに微笑を貼り付けたまま、
掌に散らばった無数の細かい傷跡を刺激しないように優しく拭う所作。

水分を多く含んだ手ぬぐいは湯を使ったのか温く、優しかった。
みるみる土気色に汚れるそれを傍らの手桶で清め、次は指先まで丹念にふき取る。
爪の一本一本まで丁寧に慈しむその手はくすぐったくて、身を捩った。

「……痛いですか?痛かったら、言ってくださいね」
ふるふると首を横に振る。
いや、むしろ。

「……心地いい」

ぽそりと小さな声で呟いた言葉に『そうですか』と男は嬉しそうに笑った。
くすくすと零れる穏やかな声の中、左手を清められ、新しい布で頬の汚れを拭われる。

「さ、よろしければもう少し、傍へ。ご子息」

やさしいことば、労りの指先、けれども…。
その中に潜んだ小さな棘が一番痛む場所を掠め、刺激した。

「……いい」
「え?」
「もういい!!俺は、子息なんかじゃない!!」


痛みの余り吐き出した言葉が、暗闇に散らばって静寂を呼び起こす。
微かに聞こえた虫の声も遠くて、唯月だけが明るく、冴え冴えと冷たく見下ろしていた。

「……痛かったんですね、すみませんでした」
「違う!馬鹿にするな!!そんなんじゃ…!」

見当違いな大人の言葉に激昂する。
違う、違う、そんな傷が痛いだなんて、
そんなことじゃなくて、ただ。

「……ここが、痛かったんですね」

先ほどの微笑が形を潜め、沈痛な面持ちでそっと自らの胸に手を当てる。
優しくそこを摩り、視線を上げる目の前の男が不意に。

「牛若」

俺の名前を呼んだ。

唯、呼ばれただけだった。
けれども、じんわりと何か暖かいものが染み渡るような錯覚を覚えて動揺する。

「いらっしゃい」

気安く呼ぶな、とも思った。なぜ名前を知っている、とも。
けれどなぜかその言葉に逆らうことができず、すごすごと近づいてゆく。
温もりを感じるまでに近づき、縁の傍らに腰を下ろす。
するとふわりと黒い外套を着せ掛けられ、目を見開いた。

「……あた…たかい…」
「そうですか、よかった」

気が付いてなどいなかった。
晩秋の木々の中を我武者羅に走り抜けた手足はすっかり冷たくなり、
血が滲んだ傷口だけがそんな弱さを律するかのように痛みを主張していた。
こんなことではだめだ。もっと強くならなければ、と。

男の持ち物である外套ごと、ふわりと包み込むように抱きしめられて
その鼓動が伝わる。

何をされるかと身を硬くして、暫く。
ゆるゆるといつでも逃げ出せる程度の力で俺を抱きしめたまま、男は黙っている。

その静けさに、伝わる拍動に、
ほんの小さな赤子が柔らかな産着に包まれて眠るような
そんな安心感をなぜか感じて、裏腹に心の中に突き刺さった棘が口に這い登る。
絶対に言わないと心に決めていた、弱弱しい言葉。悲しい事実。

「聞いてしまったんだ…」

以前から、疑問に思っていたことへの答えを。

似て似つかぬ父と呼ばれる男の冷遇、感じる己に対する薄い恐れ。
弟が生まれてからの、母の不思議なよそよそしさ。
俺が大きくなることへの拒絶。

「……みんな俺のことを邪魔にする。見ないフリ、気が付かないフリで通り過ぎる。
母上も、夜半涙を浮かべて俺を見下ろすときがある。それも皆…」

『牛若様をどうやら早々に寺に預けるらしい』
『そりゃ、いつまでも他人の子供…しかも……を面倒見るなんて御免だろう』
『これ以上、厄介な餓鬼をおいておく必要はないからな』


言葉を成そうとする瞬間、堪え続けていた涙が溢れた。
声が、震える。

「俺が…、……この家の子供じゃ…なかったから、なんだ……」

驚いたりしなかった、落胆などしなかった。
あんな卑屈な男が父でなくてよかったとすら思っている。

ただ、きっとどこかにあるだろう、尊敬すべき父がいて、美しく微笑む母がいて、
自分がいる暖かな家を探して駆け出して、彷徨って。
じわりじわりと不安と焦燥が胸を覆い、ようやく気が付いた。

今、帰る場所がここしかないという絶望に。


「……そうだったんですか。だから僕の心無い言葉に傷ついたんですね…」
すみませんでした。と包む腕が微かに揺れる。
抱きすくめられるような形で、声はまるで天から優しく降り注ぐようだった。

「……俺は、どこにいくのだろう。どこにいけば、いいんだろう」

自分に対する問いかけは、彷徨いながらも常に胸の中に響いていた。

この小さな足はどこにもたどり着けなかった。
この先、独りぼっちでどこにいくというのだろう。
こんな風に凍えて、震えて、泣きながら。

「……それは、君の望むままに」
慈しむ掌が、穏やかに告げる。

「君の足が進む場所、君の目が見据える世界。そこには必ず…」
男は少しだけ口ごもるように、小さな秘密を堪える様に言葉を区切る。

「……かならず…?」
その先を聞きたいとせがむけれど、
分け与えられる温もりに疲れ切った手足が力を失ってゆく。
優しい暗闇が訪れて、目頭がゆっくりと蕩けてゆく。

「……かならず、君の傍にいることを望むものがいます」

……そんな人が、本当に現れるのだろうか。現れてくれるのだろうか。
その人の腕は、こんな風に暖かいのだろうか。

どこへ行くこともできないこの身の傍に、
いてくれる優しい人はどこにいるのだろうか。

「……ねえ、早く迎えに来てくださいね」

額に柔らかな感触。愛でられる感覚。
赤子のころ、母が繰り返した頬擦りのように柔らかく甘い何かが舞い降りて。
そこから、秘密は零れ落ちた。

「ずっとずっと、あの橋の上で待っていますから」

あの橋とはなんだろう、どこで誰が待っているのだろう。
とろとろとその膝にもたれるように堕ちる先。
愛でる掌に唆されて、睡魔の底に沈んだ。


+ + + + + + + + + +


「……ん…」

沈み、浮き上がる感覚。
夢からの覚醒は水の中を漂うような、
……暖かな羊水から吐き出されるような
そんな分かたれ難さを感じるものだ。

しかし…今日は。

あれは確か、ひどく悲しかったときの記憶のはずだった。
初めて感じた孤独、どうにもならないことにあがく焦燥。
逃げ出して、そして逃げ出した場所に逃げ帰らざるをえなくて
その惨めさに一人泣きながら蹲って眠った、はずだった。

幾度繰り返した悪夢は、普段はそのときの冷え切った心を映し出すかのように
目覚めた時の指先の体温までも奪い、憔悴して目覚める。
孤独の檻に閉じ込められたような、不安に苛まれて。


しかし…今日は。

「……九郎、起きていますか?」
御簾の向こうから聞きなれた声が届く。
穏やかな足取りは小さく板の間を揺らし、返事を待たずにひょっこりと顔を覗かせた。

「九郎にしてはずいぶんお寝坊さんなので、何かあったかと心配になりまして」
朝からの訪問に対する弁解に近い言葉が苦笑の間に滲む。

……そういわれれば、いつもより陽が高い気がする。
上半身だけを起こした怠惰な状態で、
まだ覚醒しきれないぼんやりとした心地よさを漂いながら。
視界の隅でちょこんと正座をしている旧友の姿に言葉は何気なく零れ落ちた。


「弁慶……そういえば今日はどこかに出かけるのか?」

朝餉の前だというのに、弁慶は旅装束に着替えている。

「…いいえ?ちょっと野暮用で先ほど戻ったところなんです」
少し疲れたような、けれども満たされたような微笑を浮かべてはにかむ。

柔らかく握るような弁慶の両手の間に、微かに光る白く気高い輝きが見えた気がした。
……あれは、確か。

「……さ、九郎。早く支度をしてください。今日は君が生まれた日だから、と
みんないろいろ準備しているみたいですよ。主役がいつまでも寝ぼけていてはいけません」

とん、と軽く自分の膝を叩いて弁慶が立ち上がる。
その動作にあわせて、見上げるように視界を持ち上げて。
高い陽の明るい時刻、…薄闇の紗の下りた月夜の時刻。
ふとした既視感が胸に舞い降りて、目を細める。


「……ねえ、もうひとりじゃ、ないでしょう?」


微笑みと共に小さく漏らされた遠い日の優しい予言。
その答えは、今、軽やかな足取りで御簾の向こうへ消えていった。


 
ちいさな予言 

2007/11/09  harusame *happybirthday KUROU!!*
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