『ん』:
「…………」
弁慶が真剣な眼差しでみているのは、てれびの中で、白い衣を纏った人物だ。
『医療を扱ったドキュメンタリーですよ』、と先ほど譲が小声で俺に耳打ちをして台所に消えていった。
普段ならそのような秘めた動作をすれば、咎めたように振り返る弁慶は
未だ画面に映し出されるその姿を、医術を施しているであろう赤く染まった指先を、食い入るように見つめている。
「……すごいな」
吐息のように漏れた彼の呟きは、ただ感嘆に充ちていて。
瞳は、詳細には映し出されない施術の謎を解くように好奇心に輝いている。
……真摯、なんだとわかる。
彼が薬師として、人に向かい合うことに。病や怪我に立ち向かうことに。
…死や、衰弱や、飢え、乾き、貧困からくる悲しみを赦せないほどに。
たとえすべてを救えなかったとしても、
対価として胸に抱くのはあまりにも大きい後悔だとしても。
ふと、脳裏に蘇る光景。
それが不意に心を締め付けた。
「……九郎?」
何も告げず、弁慶の隣に腰を下ろす。
ソファーが軋んだ振動は、ゆるい衝撃となって直に彼に伝わる。
それは画面に奪われたままだった注意をこちらに手向けさせるための小細工。
「どうしたんですか?急に…」
「……いや…」
膝の上に置かれた手を奪うように握り込めば、弁慶はさらに不審の色を濃くした。
そこから感じる、うっすらとした汗の感覚、薄い体温。
不意に訪れた心象。
それは小さな川沿いの村で、橋の下で悔恨に震えていた
あの白い、けれどもひどく荒れていた掌。
遥か遠く昔、その手を無力だと呪った悲しい決意。
そして、そのまま歳月を経て大きくなった、
今この手の中にある掌。
それをぎゅっと己の手で包み込んだまま、
問答無用とばかりに弁慶の肩口に凭れ掛かれば、
「眠いんですか?」と盛大なため息が傍らから漏れ聞こえる。
ああ、もう眠い。夜も遅い。
けれども、なによりも。
今、幾年月を…そして時空までも越えた、この掌に伝えたかった。
「ん……」
弁慶の傍らにある俺という存在。
それを守り、癒し、慈しんだのは弁慶のこの掌で、弁慶自身だと。
必死に学び、時に夜を徹して傍らに座してくれた、その献身のおかげだと。
だから、この移り変わりの激しい泡沫の世界の価値観に
そんな風に不安そうな目などしなくてもいいと。
「…まったく、本当に九郎は…」
言葉で伝える術など、そんな才など持ち合わせていない。
唯陳腐に響く位なら、この心に浮かんた愛おしさに似た感情すら
届かなくてもかまわない。
苦笑を零しながらも、緩やかに握り返される。
指と指の間に食い込む、守り人の存在を感じながら瞳を閉じれば、
淡く懐かしい記憶の中に意識はゆっくりと沈んでゆく。
「……鈍いのか、聡いのか…」
そうひとりごちて笑う同じ声音が、交差するように過去の己に降り注いだ。
ん: (九郎+弁慶)
リハビリリハビリ。
九郎さんの一番短いアイラブユーは言葉ではなくボディーランゲージで。
不意にへこんでいたりすると、わんこは身体を密着させて慰めようってしますよね。
2007/08/08 harusame