『…ねえ、九郎。覚えていて。』
夢、を見た気がした。
瞳を開き、捕らえようとした温もりは既に傍にはなくて
穴のあいた心と、身体に痛みが蘇る。
++ 白き現 ++
格子からはぼんやりと薄明かりが透けている。
昼か、夜か…刻の流れなどそんなものはもう忘れてしまった。
もう、自分の前からは闇が消えてしまったかのようにただ朧げに白い世界。
その様がただ瞳に映り、重い意識にゆるゆると現実が染み渡る。
『退くぞ!!血路をひらいて生き延びろ!』
凄惨、だった。
怒りとも憎しみとも悲しみとも違う感情に任せて、剣を振るった自らの背後には
紅い残像が失った温かい影の代わりに足元を這う。
そのぬめる感覚に嫌悪を覚えて、立ちふさがる平家を、ただ薙ぎ払った。
源氏を誇った笹竜胆の白い衣も、この手も、…視界の全てが
血と土に塗れ、赤く黒く染まりいくはずだった。
それほどにこの手は屠ることをやめなかった。
にもかかわらず、目の前はゆっくりと全ての色が抜け落ちてゆくように
ただ、白に。
すべてを見失うほど、一片のくすみも赦さぬほどの眩しさの中
遠く、景時が呼ぶ声がしたのだけを覚えている。
…失血が酷く、麻痺し動かなくなっていく左腕を振り回していくうちに
気を失ったと知ったのは、白い敷布の上で目覚めたときだった。
それ以来、俺はただ夢と現の間で掌から滑り落ちた闇の残像を探して
真っ白い悪夢を彷徨っている。
…ただ、守りたいと思ったのだ。
抱きしめたかった身体は案の定、腕の中で細くしなった。
「眠れない」と初めて縋られた指先に、彼の真意があるのなら。
弁慶は、
ずっと傍にいてくれたんだ。
この身の周りを激流のように流れる戦いの日々の中、
ただそっと拠りそっていてくれた。
それがどれだけ、心強かったか。
自分が進むべき道を照らしてくれたか。
……前に踏み出す力になってくれたか。
今まで心に秘めつづけ、その思いのひとひらも受け取ってもらえなかった
真心を全て込めて、守りたいと思っただけなのに。
けれども弁慶は、
『では、僕はここでお別れです』
常に隣にあったその微笑は少しも揺らぐことなく
『君は甘いんですよ、九郎。こんな状況でも僕を斬り捨てられない』
源氏を、俺自身を拒絶した。
…あの肌の温もりが、呼び起こされるように鮮明にこの手に蘇るから。
その微かな震え、そしてしっとりと汗ばんだ感触さえも。
その愛しさが、こみ上げる嫌悪に塗り替えられる不快感を握り潰すように
拳を握る。何度も、繰り返し、爪が剣術の鍛錬で硬くなったこの掌を
食い破り、紅い血が滲んでも尚。
ただ、それが嘘なのではないかという密やかで絶望的な期待を胸に、
幾度浅い眠りと、落胆の目覚めを迎えればこの悪い夢は醒めるのか。
彼を庇い、射貫かれた肩に篭る熱が、意識までを混濁させて。
その傷の深さと痛みが、徐々に染入るように昏い真実を突きつける。
「………弁慶…」
居た堪れなさに上体を起こし、枕元に置かれた桶に目をやる。
手ぬぐいを湿らせるために置かれたそれにぼんやりと映る己の姿。
ゆらりとゆれるその残像は今の心そのままに。
酷く荒んで疲れきった顔、そして…袷の影に見慣れない鬱血が
見えて目を凝らす。
右の鎖骨の下、感じる微かな痛みに目をやれば
『…ねえ、九郎。覚えていて。』
「……っつ…!」
ざわりと鮮やかに蘇る。遠い日の約束。
ただ、それは既に果たされたものであり、今やその力すらもたない言霊だとしても。
『この紅い噛み傷が消えるまでに、僕は戻ります。
それまでは、君のことでさえ忘れます。源氏のために。』
平家の屋敷に消えて戻らないあいつの唇が触れて遺した紅い痕。
ただ、それを信じて彼が戻るのを待った日々。
その首筋にのこされた彼の唇の感触と熱だけを信じていた。
『彼は必ず戻る』と。
…その絆と同じように置き去りにされた戯れの記憶。
「…どうしてだ…、どうして。」
偶然でも、そんな心に秘めた約束まで否定するのだろう。
心の中で密やかに守りたい、そんな想い出までも。
それが示すもの。
この、密約によく似た情事の痕が消えても、きっと。
…弁慶は、もう戻らない。
白き現(057. 約束)
屋島前から続いているお話の九郎独白。
当初は三部作だったのでこの次で終わりになるはずだったのですが、
平家潜入エピソードとかもろもろが脳内で絡まって収拾つかない状態になっちょります。
2006/02/18 harusame