酷く、薄暗い宵闇。
この身の衣のように月をも隠す深い漆黒。
淡い希望の光を探して、視線を上空に彷徨わせても。
「…どうか」
すべての感情が欠落してしまったような無機質な声音で。
月さえも見ていない夜に
……こんな願いは届かない。
++ 月も見ていない ++
陽炎のように揺れる灯りの元、
眠れないと訴える兵のために調合した薬湯の残りを口に含み、溜息をつく。
調薬になれたこの身には気休めにもならない
ただ、苦いだけのそれを繰り返すようになったのは。
「…弁慶」
唇の端についた青い匂いのする液体を指先で拭い、振り返る。
そこには微かに眉を顰めた九郎が、案じる眼差しでこちらを伺っていた。
「九郎、どうしました?」
「…どこか、具合でも悪いのか?」
彼の目線が先程まで手にしていた器をちらりと掠める。
「…俺は薬師でもないし、お前のように観察眼が優れているわけでもないが…
…なんだか、少し、おかしい気がする。…疲れているのか?」
「……。ああ、これですか?少し余ったので、気休めに」
僕も気が昂ぶっているのでしょうか、ね?と微笑んで見せても彼の愁眉は晴れない。
「……本当はあまり薬が効きやすい身体ではないので、
…誰か暖めてくれる人でもいればぐっすり眠れるのかもしれませんが…?」
ふふ、と意味深な笑みを唇に乗せると
一瞬の狼狽の後、気分を損なわれたようにそっぽを向く。
九郎の項は瞬く間に赤く染まっていった。
「っ…!冗談はよせ」
「冗談ではありませんよ。人肌は最も害のない入眠儀式のひとつなんですから」
戯れに九郎の袖に滑らせた指先は、微動だにしない彼の固く結ばれた拳で黙殺された。
…振り払われなかっただけ、まし、なんでしょうね。
そんな様子に苦笑がこみ上げて、馬鹿にされたと思ったのか九郎は更にむっつりと口を尖らせた。
「…俺は、ただお前の事を…」
そこで言葉を詰まらせ、奥歯を噛み締める動作。
そう、彼はただ純粋にまっすぐに心配してくれただけ。それもわかっている。
彼の野生にも似た勘が知らせた異変を、優しい解釈で。
「……僕は大丈夫ですから。九郎も早く休んでくださいね」
そう告げると、九郎は幾分傷ついたように目線を落とした。
「…勝手に、しろ」
「…………」
溜息でも零すように、哀しそうに突き放されて。
ほんとうは
追い縋るべきものが何かなんて、わかっている。
身を焦がすほどにほしいものも、望むものも
それは、ほんの少し、手を伸ばせば。
どす、と不機嫌そうに踵を返す九郎の背。
その光景は何度も思い描いた悪い夢と重なって、不意に
「……本当に、眠れないんです」
ぽつりと零れた心の雫は、波紋のように広がって九郎の足を止めた。
武人である彼が易々と己に背中を赦すことに甘えて、
ゆっくりその背を包み込むように腕を回す。
「…九郎…たすけてくれますか?」
「…弁慶?」
戸惑うように揺れた、九郎の肩。
珍しく衝動的な行動に走った、友人の顔を覗き込もうと振り返る面差しを
許さないように、ぎゅっと拘束をきつくする。
「眠れ、ないんです……」
回した手に重ねられる、しっかりとした指先。
それは、この腕を引き離そうとしているのか、抱き込もうとしているのか。
「……おい…べん…」
「おねがいです」
息を飲む音が、肩越しに生々しく響いて大きな溜息。そして。
「………俺は、どうしたらいい」
九郎から発せられたのは搾り出すような声、でも縋るような言葉。
「ずっと願いつづけて、でもはぐらかされ続けた。お前に対する想いを殺しつづけた」
戸惑いと、疑いと、そんな彼に似合わないものが、その音に揺れている。
「ようやくその苦しさになれた今、急に求められて…俺はどうしたらいいんだ?」
力任せに引き剥がされる。
温もりが遥か遠のいて世界が暗転する。
吸い込む空気がなくなってしまったような苦しさの彼方
「……………くろう」
「ずっと…こうしたかったのに……」
早鐘のように打ちつける鼓動が遠く木霊してその腕の中に閉じ込められたことを知った。
++++++++++
「……っ、く…」
相手がどのように堕ちていくか、冷え切った眼差しで経過を辿る必要のない交わりは酷く熱を孕んだ。
夜着の前を肌蹴られたまま、逃がさないとばかりに足首を掴みこんでいる九郎の髪が柔らかな内股を翻弄する。
当の本人はといえば長いこと唇を舐めとっていた舌でゆるゆると足の付け根あたりを彷徨っていた。
「…弁慶……」
「…っ、あ…!」
ぞくり、と不意に肌が粟立つのを感じるのは、その声が今まで考えもしない位置からから聞こえたとき。
戦場で見る時のような酷く鋭い眼差しで、そこから瞳を合わせてくるとき。
ゆっくりと侵食する指よりも、暴かれた欲よりも
なによりも真っ直ぐに射抜く視線は凶暴なまでに弱い心を震わせて。
「…くろ…ぅ……も……!」
執拗なまでに押し広げる動作。
ただ緩やかな快楽の洪水は、徐々に呼吸の深さを奪っていく。
死んだ魚のようにしどけなく口を開いて、薄い空気を吸い込む。
その苦しさに、思わず彼の長い髪に縋った。
「……まだ、だめだ……」
「…ど…して…」
強請る声音だ。自分はなんて貪欲な声を出しているんだろう。
「……絶対に、お前に、辛い思いをさせたくない……」
その真剣さに戦慄き、逃げを打った下肢に走る一瞬の激痛に眉を寄せる。
その微かな所作だけで、九郎は絶望したように睫を伏せた。
「……こんな風に虐げて…そんな誓いは詭弁に聞こえるかもしれないが…。」
「っ…んん!」
融解を促す指に、奥に、あの九郎が口付ける生々しさに、眩暈がする。
「俺には、こうするほかに考えが及ばない…」
思わずこみ上げる羞恥に目を閉じれば、耳に届く卑猥な音も
声を殺そうと引き締める唇も、不意の嬌声にほどけるほどに湿っている。
散らばる己の髪も、腕に縋る指先も汗と熱で蕩けて
この躯の至る所からどろどろと溶け出していくような錯覚。
このまま、彼の気遣いの前に汚い自分など消えてしまうではないかと遠く思った。
「…や…、め…」
いっそ、このまま。
「……すまない、大丈夫か…」
「…大丈夫…なはず、ないじゃないですか…」
堪えていたはずの拒絶が、不意に口をついた。
案の定、九郎は瞳を揺らし、侵攻の手を止める。
差し伸べられた手、頬を包む指先は隔絶に震えていた。
歪んだ想いは、そんな執着にさえ悦びを覚えて。
口角は自然と引き上げられる。それは微笑みの形に。
「…そんなに怯えないでください」
その一瞬の隙をつき、渾身の力でその手を逆手に取り返す。
覆い被さるような体制で、それでも押し潰さないように腕を張る九郎の
丁度袷の少し奥、見えるか見えないかの位置の鎖骨に思う存分噛み付いた。
「…っつ!」
「……九郎は、…いつからこんなに意地悪になったんですか?」
…こんなにも悪辣に焦らしてくるなんて思いもしませんでした…」
潤んだ眼差しは、生理的なもの。
微笑む親友の気安さで告げると、先程まで散々人を玩んだ男とは思えないほど初心な動作。
茹で上がる顔色がなんとも小気味いい。
「な…っ…っ…!じ…らしてなんか…!ただ…俺は…!!」
わたわたと慌てる所業に、ああ、九郎なんだと息をつく。
散々鳴かされたことの意趣返しで、もう少しだけ。
「…僕を思うが侭にして、愉しんでいたくせに?」
くすりとからかいの色で告げたのに、その言葉に九郎の纏う空気が変わる。
「……違う…!!」
ああ、まただ。
「…そう、思われても仕方ないかもしれない。でも…」
ものすごい勢いで抱きすくめられて
世界が柔らかな闇に覆われて、
締め上げられるほどの抱擁で身体は悲鳴を上げるのに。
「…いやだな…そんなこと本当に思うはず、ないじゃないですか」
…ああ、九郎なんだ。
その腕は胸は熱くて苦しくて愛しくて仕様がない。
++++++++++
"守りたいんだ"と、あの声が唇の上で囁いた。
壊す動作で、強さで抱くくせに温かくて優しい彼の言葉。
「ぅっ……ん…!も…っと…」
酷く、辛くあたって、できることなら。
"こわして"と声にならない懇願をするけれど。
それを封じるように唇を塞がれる。苦しい。
突き立てられたものが、奥でずくずくと蠢いて圧迫感に意識が揺らめく。
でも、物理的にだけでなく、なにかもっと奥が満たされていく感覚。
「ん…!…くろ……」
首に回す指が快楽で歪んで、解けそうになる度に力ずくでそれを引き戻された。
耳朶を九郎の熱い息使いがくすぐると、迷子になりそうになっているのはどちらなのかわからなくなってくる。
荒い呼吸の下で微笑む、自嘲気味に。
「……おまえを…ぜったい…。」
限界が近くて、啄ばむように唇を寄せれば何度でも答えてくれる。
熟れたように紅い唇を絡めれば、微かな痛み。胸のいたみ。
…壊す動作で慈しむ彼と、望む優しさで何もかもを壊してきた自分。
相容れるように抱き合えば、一体どちらの願いが叶うのだろう?
腰を掻き抱く腕の強さに、達する高みに、どちらが存在するのだろう。
白く遠ざかる視界の果てに、明日の空の紅が滲んで見えた。
++++++++++
眠れないのも、薬が効きにくい身体なのも本当。
自分を罰するために口内に施しておいた眠り薬は、
繰り返し口付けた先で本当の眠りに落ちるように九郎の意識を奪った。
その、幸せそうに閉じられた瞼を見て、仄昏い嘲笑が浮かぶ。
最期に一度だけ、好きなままで抱いて、だなんて。
なんてひとりよがりで、利己的な欲望をこの綺麗な人に押し付けてしまったのか。
次の戦いが終わった時、この伏せられた栗色の瞳が憎悪の光を帯びて自分に向けられること、
そして今日の情事が彼の心を更に締め上げることなどわかりきっているのに。
「…九郎……」
その名を、呼ぶ。
あと何回赦される?その髪に触れるのも、もう…。
ゆっくりと瞳を伏せ、額をその胸に押しつける。
『守るから、傍にいてくれ』
腕の中で最後に聞いた君の声。君のことば。
伝わる鼓動、健やかな寝息。
…愚かすぎる君。
その身を狙うこの毒牙でさえ、守りたいなどという君
願わくば、己の呪いの届かないところに閉じ込めておきたいけれど。
「…………」
声にならない請願は、溢れることのない嗚咽となって
ただ胸の中に響いていた。
それは呪縛の言葉。
引き結んだ唇で砕いて、音を成すことがなくても罪深いこの想いは。
…壊す手しかもたない自分
外は、月も姿を隠す深い漆黒。
心の奥に秘めた願いなど、もう二度と届かないのに。
「……君は僕なんかを守らなくていいんですよ…僕は…」
九郎を苦しめ続ける僕
…僕が抱くこの手。
全てが終わった瞬間
…この手は、僕を壊してくれるだろうか。
月も見ていない
何度書いても消化しきれない箇所をつたない文字で…あああ。
何度でも書き直したい気分満載の箇所です一番九弁で美味しいところなのに…!!
オムニバスな感じでこのあと続きます。この前も実はあります。
切なさは幸せへの序章だと信じたい。(え)
2005/11/09