源氏が屋島から敗退した。
その劇的な戦況の傾きは地を揺らす怒号のように諸国に響き渡った。
総大将が大怪我を負った、軍師が行方不明になったと、
戦奉行の情報統制も虚しく源氏劣勢の流言はとめどなく溢れつづけている。
だが、それ以降も源氏に考えられていた動きは見られない。
"残念ながら、未だ…"
飛び回る烏から同じ情報を聞きつづけて、一月が経とうとしていた。
普段黒い外套に隠された、色素の薄い髪だけが「形見」とばかりに熊野に届けられても尚、
源氏は微動だにしない。
足早に消えて行く烏達に届かないように何度舌打ちを繰り返しただろう。
「……まったく、ヒノエは何も言ってこねぇしな」
焦燥は、燻るように胸を焼く。
助ける手段はあるはずなのだ。
独り、平家の陣中で戦いつづけるこの髪の持ち主を救い出す方法は。
持て余す苛立ちは、不意にこの身体を突き動かす。
そう…源氏には、まだ、あいつに手を差し伸べる事のできる"神"がいるはずなのだから。
影と戯れ
忍び寄るように近づいた陣は来るべき合戦に備えて活気付いていた。
そんな状況下で大将がひとりで陣を離れるのは朝稽古の時間だけだという。
朝靄の先、海岸の水平線を見渡せる位置にその姿を見つけて、息を飲む。
「……あなたは…?」
聞き知らぬ声に振り返る緩慢な所作。
太刀を振るう姿に力強さはあるものの、かつて熊野で垣間見た凛々しい面差しとは程遠く
どろりとした濁水のようにこの世を見据えぬ目線に愕然とする。
こちらが丸腰とはいえ、握った太刀を構えようともしない。
覇気のない声は将としての威厳すらなく、ただ朧げに響いた。
『まるで、風神のような…』
遠い平泉の地で、久方ぶりに再会した兄を置いて去ろうとする背中。
そうひとりごちて、こちらに向けていた感情のない視線をずらした。
色の違う眼差しでその姿を想う弁慶が鮮やかに脳裏に蘇る。
…これが、その。
お前が想った、神か?
その憔悴しきった姿を見た瞬間、自分を取り巻く全ての世界が音を失ったような気がした。
……風が止んで、波がなくなり、海面が揺らぎすら忘れたような。
穏やかな静寂の中にあったのは、ただ、失望だった。
+ + + + + + + + + +
「……どうだった?」
案ずる緋色の眼差し。
こうなることを知っていて、連絡をよこさなかったのだろう。その優しさに力なくも微笑で答える。
「…ヒノエ。お前に別当を継いでもらって、心底感謝しているよ」
今、自分に力がないことを、大きな過ちを犯すための力をきちんと息子に託しておけたことを、虚無感とともに噛み締める。
瞼を落せば、いつも思い起こされる光景。幼い姿。
『かみさま、たすけてください』
神に疎まれた外見を持ち、虐げられる境遇を与えられて尚
それでもそう唱える事しか赦されなかった憐れな虜囚。
助けの手はあるんだと、ただ、それを伝えたかった。
それがちっぽけな、兄の手でも。
「…そうでなければ、俺はまた熊野を道連れにしても
あのちいさな子どもの神になりたいと願ってしまったかもしれない…」
何度でも手を差し伸べてきた。縋ってくれと切に願いながら。
でも、その度に哀しい微笑を向けて、目を伏せる。
いつも自分の手だけを握りしめ見つめていた、
あの瞳が只一つ視線を奪われたというものが。
…あんな力ないものだなんて。
唇を力の限り噛み締めたところで、ため息のように嘲笑だけが零れる。
留められなかったのは自分も同じ、あの男も、同じだ。
ただ、手を伸ばしてもらうことさえしてもらえなかったのは。
「……帰るの?」
黙りこくったこちらを、よく似た色の瞳が見据えている。
「…ああ、そうだな。……隠居爺らしく神にでも祈るさ」
「…………そう」
気のない台詞と共にその朱には落胆の色が一瞬浮かんで消えた。
そうだ、今この無力な身に残されたのは祈ることだけ。
願わくば…今、弟を包む凪の世界が少しでも安らかなものであることを。
そして、全てを取り戻し、全てを失って熊野に戻ってくればいい。
忌み嫌われる姿も美しい形も縋る手も哀しい記憶も
なにもかもなくなればお前は開放されるのだろう?
「……そうしたら、ただひとつの…俺の望みを叶えてくれてもいいはずだ」
「……?…親父?」
それだけを求めて、あの国を導いてきた。
その望みを。
+ + + + + + + + + +
赤く斜陽が差し込む境内。子どもたちが家路に急ぐ音。
まだ小さい弟を、兄が呼ぶ声がした。
おいでと伸ばした手をぎゅっと掴み、それを振り回しながら笑う。
柔らかな茜色に包まれて、それらが徐々に遠ざかる。
これが熊野の日常。
家族が誰一人離れることなく、一緒に、笑って過ごせる世界。
争いなどなく、血族が憎みあうことなどなく…ただ笑って。
……自然に漏れた微笑はいつしか音を失う。
その日をこうして待ちつづける、己自身に訪れない日常。
ことり、と石つぶてを転がしたような不可解な音に伏せていた視線を上げると
まだ季節に早い一匹の揚羽蝶が彷徨うように漂っていた。
手を伸ばせば、無骨な指を恐れることなくふわりと舞い降りる。
「…………」
羽化して間もないのだろう。
慣らすように数度、羽根を動かしつつも指先に留まる。
ことり、ふと胸の中に訪れる感慨。
言葉は、あまりにも自然に溢れ出た。
「……おかえり。早かったな」
…また風に攫われそうな姿で現れやがって。
せめて鶴とか亀とかこれからずっと共にいられるもので現れてくれればいいものを。
昏い闇と眩しい稲穂色を纏ったまま、…そんなところもらしいといえばお前らしい。
「……すべては終わったのか?」
語ることのないそれは、ただゆっくりと羽根の動きを止めた。
「……それなら」
誰も見ていない。
すべてが色を失い、風が止まる。
もう、どこに連れ去られることも誰に奪わせることも、ない。
「…今度こそ本当に、一緒に……暮そう」
そんな夕闇の中で、ようやく口にできた本当の願い。
国を動かし、神をも脅かし、……けれどこのような形でしか得られなかった願い。
それがあまりにもささやかすぎて……嘲笑った。
初めて出会った時。兄を名乗ると、少しだけ驚きに見開かれた瞳。
ずっと傍で、たとえ"かみさま"になどなれなくても、
あの時全てを投げ打ってでもその手を掴んでいたならば、
今この手にあったのは人の温もりだっただろうか。
…その心に、傷と痛みは生々しく遺されなかっただろうか。
今、指先には異なる微かな命の感覚。あの手を取ることは、二度と叶わない。
「一緒に……どんな姿でもいいから。せめて……、共にいてくれ」
そう、せめて置き去りにされて行き場を失った、この胸の想いが眠りにつくまで。
影と戯れ
堪快さん視点の弁考察。そこはかとなく100題の「神様」に繋がっています。
昔熊野は自作弁慶年表にしたがって進むわけなのですが。
「比叡に出したあと行方不明になった弁慶と堪快さんが平泉で遭遇編」で
弁慶を連れ帰ろうとする堪快さんが「どんな男か知らんがおにーちゃんは赦しません!」と言った時の
弁慶さんの反論が『…まるで風神のような』だったりします。
九郎さんと堪快さんの間にあった展開はまた別に。
2007/05/10 harusame