「しかし、京の周りだけでなく、こんな遠方の温泉にまで詳しいんだな」
暮れ始めた茜色の揺らめく水面に眺めながら呟く声は湯気に混じり感嘆となる。
熊野。
その山深い里の合間で容易くこのような癒しの場を言い当てる己の片腕は、
肩まで浸かった温泉の湯を掌の上で弄んで、目を細めた。
「癒しの手段は薬ばかりでないですからね。
薬と違って副作用がないのもいいですし、その土地土地で異なる効用を調べるのも楽しいものですよ」
手にある無色無臭の透明な湯を検分するように見つめる眼差し。
長いこととっぷりとぬくもりの中に浸かったままの目尻や髪を結い上げた項は、
普段よりもほの赤く、不用意に奪われた視線をずらす。
「君がよく無茶をするので、必然的に僕がよく知ることになるのは、傷や痛みに効くという温泉ですが
……ここのように、疲れが取れて、肌が綺麗になるところも捨てがたいでしょう?…だって」
さすがに上せたのか、湯船の縁に腰掛けるため、立ち上がる。
彼のその腕を、その首筋を伝う雫に夕陽が揺らめいて、
ゆるい衝動は眩暈のように脳裏を過ぎる。
「……だって、たまには自分も磨いておかないと君に飽きられたら困るし」
そういって、弁慶が嫣然と微笑んだ。
先ほどまで、衝立の向こう側の華やかな声に翻弄されていた湯船の中には、
今、弁慶と二人きり。
くらくらと揺れる頭と熱を持った身体はもはや、効能豊かな湯のせいばかりではないだろう。
副作用がないなんて、よく言ったものだ。
じんわりと熱となって身体と心を蝕む、色香に半ば自棄を起こして、磨いたばかりのその腕を引いた。
notitle(九郎+弁慶):2007/7/25
熊野参詣のご利益をいただいてたたきつけた一品。
我武者羅に叩きつければいいってもんじゃない。
頬を撫でる優しい指先に意識がゆっくりと浮上する。
身体は情事の後の気怠い感覚の中を漂ったままで、瞳を開くのも酷く億劫なまどろみ。
小さく息を吐くと指は薄く開いた唇をゆるりと辿った。
「……けい」
囁くように名を呼ばれたような気がして、答える代わりに戯れる指先を軽く吸うと
額の髪を解いていた手の動作がぴたりと止まる。
まるで小さな子供のような。
それでいて酷く情欲を煽るような。
ささやかなの悪戯の途中、再び意識はとろりとした闇の中へ。
ああ、もったいない、と思う。
きっと今、愛でる手の主の顔は朱に染まり、
無意識の反応に動揺を隠せないでいるだろうに。
あの、昨晩と裏腹の初心な素振りで。
最後の気力で微笑を敷くと、観念したようにぎゅっと抱きしめられる。
宵闇と暁の狭間、夢と現の境、どちらに身を置いても暖かく心地よい腕。
「…くろ……」
日が昇るまでいま少し、この腕とまどろみの中に沈む。
この心地よい感慨に身を擦り寄せ、もう一度小さく息を吐いて
君の愛した唇に微笑をのせた。
まどろみ(九郎+弁慶):2007/10/12
夏の疲労的不良債権が残っているのか
毎日眠くて眠くてねむくて仕方がないのです。
ね…むい…と唸りながら小話をひねり出そうとすると、
こんなねむい仕上がりになります。
目が覚めて、覚醒するまでぬくぬくぼんやりする時間が好きです。だめか。
そのときには、僕に白い花を。
+ + + + + + + + + +
花を手向けるというのが、忌み嫌うものにするものではないことは
なんとなくわかっていたけれど。
「……どうした?何か俺の顔についてるか?」
『今日は、お前の生まれた日、だったよな。』
『望美に聞いた。あいつの世界ではこうするのが慣しらしいからな。』
そう言って、九郎に差し出されたふうわりと白く美しいものをみた瞬間に
そこに見つけた好意が何より辛かった。
「いえ…ありがとうございます。でも、花をいけるような風流は持ち合わせて
いなかったもので、何に挿したらいいでしょうね…?」
この人が僕に花を手向ける時。
その時はもう、自分はこの世界にいないと思っていた。
不本意ではあるけれどこの人の目の前で、この人のために散った時だと。
ましてこの可憐な花にも似た君の信頼を手折り、
今まで築き上げてきた全てを奪い取って
九郎の元を去ろうとする自分などは、
そのようにしてもらえる価値すらないというのに。
「どことなく、お前に似ていると話していてな」
ああ、こんな風に向けられる真っ直ぐな瞳など立ち枯れてしまえばいいのに。
これほどまでに屈折し、執着する心。
戦を終わらせたいという願いと同時に密かに宿る願望。
できることなら貴方のもとから切り離された瞬間に朽ち果ててしまいたいと。
「綺麗ですね。この全てが凍える季節によくこのようなものを見つけてくださいました。」
あと少しで、君が僕に向けてくれるその信頼も、その微笑みも奪い去ってしまう。
自らの手で、自らの言葉で、僕の意思で。
ああどうかできることなら。
そのときには、もう一度君の手で
僕に紅い赤い血の花を。
白い華:2007/10/23
弁慶さんの誕生日話のボツ小話。しかも一回り前の誕生日のときの。
誕生日にしてはどん暗いクォリティのため季節感も旬も無視してアップ。
というか、あれです、だんだんボツも底をついてきた、と。