九郎が朝餉に現れない。
誰よりも朝が早く、時間に厳しい九郎にしては珍しい事態に
弁慶は小首を傾げ、心当たりを反芻しながら彼の部屋へと足を向けた。
そういえば昨日、望美さんと盛大な喧嘩をしていた……が、
まさかそんなことくらいであの九郎が職務を放棄するとは考えられない。
「……起きてこられない程、具合が悪い…のでしょうかね?」
主君にそんな素振りを見付けられなかった薬師殿は眉間に少しだけ
皺をこさえて、障子の前に立った。
「……九郎、起きていますか?」
確認の言葉を口にしながらも、遠慮なく歩を進めると
御簾の向こうには微かに人の気配がある。
垣間見れば、それは上掛けを頭からすっぽりと被った奇妙な寝姿をしていた。
「……?九郎??」
「……べ…弁慶…か?なんでもないんだ…だから…」
もぞり、と人影が動く。聞こえてきたのは間違いなく九郎の声だ。
声などが掠れた様子はなく、元気そうなのだが……
だからこそ、明らかに不審だった。
「……なんでもないようには見えないのですが…」
ついでに、そんな風体を晒しつつ『なんでもない』という、
見え透いた嘘もちょっとだけ弁慶の癪に障っていた。
「ようやく九郎が女性と逢瀬を果たしてその姿を匿っているのであれば
赤飯を炊いて差し上げますし、拾ってきた動物でも隠しているならば、
景時に相談して上げますし、ぎっくり腰で立ち上がれないのであれば
下の世話だってしてあげますから…そんなに拗ねないで下さいね〜…」
だって僕、君の軍師ですから。
穏やかな言葉とは裏腹に、九郎が身を守るように被った上掛けに手をかけ、
素早い動作で剥ぐ。流石は昔、荒法師と呼ばれ、千本の刀を
追い剥ぎしようとしただけのことはある一瞬の神業に、九郎は成す術もなく
板張りの上にほいと投げ出された。
「……ちょ…べんけ…!!」
「………っ?!くろう…?」
……これのどこか『なんでもない』のだろうか。
弁慶はしぱしぱしぱと3回瞬きをして、天を仰いだ。
もう一度、視線を戻すと……状況は全く変わらない。
「や…だいじょうぶだから…見ないでくれ…」
何度も瞬きを繰り返した瞳に映る九郎の頭には
ふわふわとした犬の耳が見えていた。
「……これのどこか…」
大丈夫なんですか……。
と、恐怖と好奇心に苛まれ伸ばした指先が竦み上がるように
小さくなった九郎の髪に伸びる。
「……う…っ…」
なるほど、触れて見るとふんわりと柔らかな毛並が心地よく、
本当に血の通った獣の耳であるから驚愕する。
亜麻色の髪よりも少しだけ色素の薄いそこはすっかりその風貌に馴染み、
九郎の焦燥をそのまま表したかのように、時たま神経質そうにぴくぴくと
震えていた。
「……なあ弁慶。お前にだから見せるんだ…なんとか…ならないものか」
自らの身に起こった未曾有の異変に、九郎の意思の強い瞳が揺れる。
「九郎、何か心当たりがあれば教えてください。
しかし…呪詛や穢れの類では僕などではどうにも…」
九郎に向ける言葉の先、彼の足元には今の心情を雄弁に物語るように
縮こまったふんわりとした犬の尻尾すら見える…。
いったい何がどうしてしまったのか。
いったいどうしたらいいのか。
非常識と超常現象の間、ぐるぐると堂々巡りを繰り返す思考の中、
弁慶が放心したように返した答えに、九郎は肺の中の酸素をすべて吐き出すような
盛大なため息を吐き出した。
notitle(九郎+弁慶):2009/01/07
けもみみブームに乗ってみました。
年が改まったので、普段と違う文体にチャレンジしたのでなんだか、ぎこちない。
ギャグテイストは文章におこすと勢いが足りないのでなんだかななのですが、
脳内で妄想する分には非常に楽しいですね…!!
「…弁慶?眠っているのか?」
板の間に臥し、瞼を落とした顔には睫の影が落ちる。
旅の装束も解かぬまま、無防備過ぎる姿で転がる朋友を不審に思った。
閉じられた瞳、青白い顔色。
「……いいえ。起きていますよ…」
ゆっくりと瞳が開かれ、とろりと溶けた琥珀がこちらを見上げる。
「…探しに…来てくれたんですか?」
「そうだ、もうみんなそれぞれに休んでいる。お前がいるとしたらここだと思ったんだ」
高館の中でも以前使用していた部屋は、当時のままに手入れをされ、
こじんまりと俺達を迎えてくれている。
寒いからとよく二人で肩を寄せ合って眠った場所に懐かしさと微かな寂しさを感じて、
弁慶の傍らに腰を下ろした。
「……すまない、疲れているんだろう?敷布を用意するから、そちらで…」
「…くろう」
起きるのも難儀であるという様相のまま、弁慶はゆっくりとこちらに手を伸ばす。
その少し甘えたような仕草に苦笑がもれて、
腰と膝裏に手を回し抱きかかえると、するり、首筋に腕が滑った。
縋るかすかな力と、触れる先のやつれた身体。
なんとも言えない感情が胸に満ちてその細い身体を抱きしめると
己の首筋近くにあった乾いた唇がくすくすと久しぶりの笑いを零した。
「…九郎…どうしたんです?」
「……苦労をかけた」
少し血色の悪い頬に触れる指先が、構う事もなかったためか酷く荒れた皮膚を滑る。
「いいえ…」
くすぐったいのか目を閉じて、その指を受け入れる。
弁慶が瞳を閉じると、その青白い様が強調されて、胸を締め付けた。
「俺が不甲斐ないから、お前を苦しめた」
吉野で至らない焦燥から零した言葉を、今でも悔やんでいる。
「仲間が傷つくのが嫌で、…迷った末に一番大切なお前を誰より深く傷つけた」
あれから少しずつ何かを殺ぎ落とすように、弁慶が追い詰められていったのを
肌で感じていた。
すべての元凶であるこの身が憎らしくて。
だからこそ、苦しむ弁慶に近づくことすら恐ろしくて。
「誰より、守りたかったのに……」
誰一人導くもののない逃避行を先導する、その細い腕を守りたかった。
俺を生かすために出口のない暗闇の中を進む、自分より少しだけ小さな背中を。
せめて、僅かに眠るそのときだけでもと抱きしめて
そのぬくもりを抱えていなければ、焦燥と己への嫌悪で心が砕けそうだった。
「もう、なにがどうでもいいんです……今、ここに、君がいるから」
くしゃりと力なく作られたその微笑は記憶にあるどの微笑みよりも
尊く、儚く、美しかった。
「……僕は…君を守れた……?」
「ああ…俺は今、ここに居るだろう…?」
ぎゅっと抱きしめる力を強くすると、最後の緊張を吐き出すように
か細い音が腕の中から漏れ聞こえる。
「僕は…九郎を守れた」
弁慶の指はゆるゆると俺の髪に触れ、その感触を楽しむように弄ぶ。
唇は首筋を辿るように這い、小さくもう一度呟いた。
「…守れた……」
何度も、何度もこの貴重な現実を噛み締めるように繰り返される囁き。
それは、誘い込むような素振りにも見えて微かに動揺する。
湧き上がった不純な感情を振り払うべく、その額に誓うように口付けを落とす。
「……もう休んだほうがいい。お前は疲れ切っているんだ」
そう呟けば、その声が届いたのか悪戯に微笑む。
「……まだ……もっと」
子供がぐずるような、小さなわがまま。
その要求にため息を零しつつ、
次はその瞼に、鼻先に、音を立てて、存在を誇示するように口付けを施す。
唇をそっとふさぐと、舌を差し出してきてその先を強請る。
ちゅ、と舌先に吸い付く唇は柔らかく、濡れた音が脳裏に響く。
目の前にある衰弱した身体と儚げな応答。
もう休ませたいと思う反面、普段と異なるしおらしい様が
そのまま少しずつ乱れてゆく過程と久方ぶりの熱に酔ってしまいそうだ。
ゆっくりと引き離そうとする腕に、弁慶の指が滑る。
「……大丈夫。案じないで。……いて?」
「…だが……」
吐息に近い懇願で、理性がぐらりと歪みそうになり
次の瞬間、触れた手首の細さに我に変える。
俺のこの身を守ることに固執し、ただ、その為だけに磨り減らされた身体。
それを今……。
「……目を閉じろ。今日もお前を抱きしめて眠る」
もう一度、深く抱きしめる。
「……くろう」
「お前が繋げてくれた明日があるだろう。二人で眠って、二人で目覚めて…
なにも焦ることなんてないはずはずだ」
『今度はこの手が守ってみせる』
そう呟くと、「ええ」という小さな声は弱弱しい寝息に変わる。
口もとにかかる色素の薄い髪を緩やかに払い、もう一度。
今度こそ、誓いを込めてその口の端に口付けた。
泡沫(九郎+弁慶):2009/08/31
リハビリリハビリ…!実は十六夜小話は初めて書くような気がしますよ。うわあ。
半年くらい前にお友達の九弁さんがお誕生日だったのでmixiにあげたものでした。
ささやかなお祝い…になってない…!! ↓orz