酷く、暑い。

山々に囲まれた地形の京は、熱を孕み、発散させる術を知らない。

「……まるで…」

『行き場も想いのやり場も持たない自分のようだ』
…という不毛な揶揄を嘲笑で噛み殺す。

この小高い山から見下ろすくだらない京の都でさえ、龍神という神に守られ導かれているという。
比較にもならない。
神も仏も、生み落とされた血でさえも、忌み嫌い、遠ざける存在。
…それが自分。

「暑い、な……」
九十九の迷い道をさ迷い、辿りつく先すら見えない自分。

『鞍馬の山には鬼が棲む』

そんな噂を繰り返し繰り返し耳にはしていた。
この髪と同じ、それ以上に鮮やかな黄金を持った人ならざるもの。
その恐ろしい伝承の通りの姿でこの地に有ってくれるのならばきっと、
人も鬼もどちらの形も心も持てないこの身などたちどころに滅してくれるに違いない。

いつか消える夢を抱えながら、故郷の封じられた廃墟でも、追いやられた寺でも
生き長らえる己の浅ましいまでの生への執着ごと、一瞬で。

そんな夢物語を求めて、延々と山路を踏み越えてきた自分に苦笑が漏れる。
逃れたいわけではない。逃げる場所など、どこにもない。

苦笑を空に吐き出そうと目線を上げれば、頭上高く聳える木々の間、微かに気配を感じた。
きらきらと木漏れ日の落ちる視界に、不穏な影が一瞬横切る。

「……っ……?!」

おかしい、と感じた刹那。風のように素早く、有り得ない高い位置から何かが降ってきた。
反射的に身を引き、避ける。
落とされた攻撃が空を切り、亜麻色の髪を束ねた子供が目前に現れた。

「……くそっ…!!」

次の瞬間、一瞬の隙をついて掴みかかってきた子供の拳を受け流し、地面に叩きつける。
だが、身軽な子供の身体はくるりと反転し、何事もないように構えの体制を取ってみせた。

「……おまえは?」

薄汚れた水干。亜麻色の髪は黄金というには程遠く、ただ眼光だけはぎらぎらとこちらを見据えていた。

「……お前、先生を討ちにきたのか?!」
強い視線、敵意を持った眼差し。
それ以外は、これといって相違ない人の姿。

「……先生?」
「先生だ!おまえも伝説の鬼退治かと聞いている!!」


……そういえば、もうひとつ。
『僧正ヶ谷で稚児に智恵を授ける異形の者がいる』

くだらない笑い話だと一蹴した噂が脳裏に蘇った。
…すると、まさかこの餓鬼がその稚児か?

「…答えろ!先生を狙う奴は赦さない!!」

それとも、目を欺くためにか細い喝食姿に身を変じた天狗の妖か?

思考を巡らせるこちらなどおかまいなしに、じりじりと間合いを詰めながら牽制する。
強暴なまでに手向けられる憎しみは、転じればこの子供からその鬼への信頼に他ならない。
ふと、つまらない感慨が胸に灯って、舌打ちをする。

「……君の言う先生というのが、鬼と呼ばれるものならば…」
「……っ!」
「会いにきた、のは本当ですよ」

薄く微笑を敷いた唇でぴん、と張った弦を弾くような肯定の響きを吐いてみせれば
次の瞬間、左の肩口に横切る風の音を感じて、耳よりも先に肌が戦慄いた。

「…なら、お前を倒す!!」

凛と響く声。いつのまにか握られていた木刀を掲げて、鈍い光を放つ双眸。
目前の小さな影に圧され、自然と包みを解かないままの薙刀を構える形となる。


鬼が出るか、蛇が出るか。


そんな言葉が胸を過り、自嘲する。
それが、始まりの合図となった。
その笑みを侮蔑ととったのか、地面を蹴り、宙を舞う子天狗の一閃は
全ての思考と感情を切り裂く鮮やかさで頭上に振り下ろされた。


+ + + + + + + + + + 

酷く、熱い。

切れる息も、振れる眩暈もこの篭ったような外気のせいにしたかった。
しかし、身体は見事にくだらない口上を裏切っていた。


「……流石は鬼の愛でし子といったところか…」


木刀からとはいえ繰り返される重い打撃を受けつづけた腕はじんと痺れている。
力押しの相手を撹乱する方法など得ていたつもりだが、小手先の手管を馬鹿がつくほど真正面からだけ向かってくる姿勢が凌駕しはじめたのは少し前のことだった。

「どうした?!もう終わりか?!」

もう一閃。
小さい肩を大きく上下させながらも、上段から振り下ろした太刀筋を
纏って目の前に飛び込んでくる。
…ただの子供の強がりと侮っていたが、無尽蔵の神通力でも授かっているのか
衰えることのない勢いに圧され、杉の幹でしたたかに背を打った。
ひゅう、と不意についた息が苦しげな音を立てる。

…追い詰められて、いる。
この僕が。

「……この程度で先生を倒そうなんて、甘く見るなよ!」

とどめとばかりに首筋に押し付けられた木刀を甘んじて受けながら、
幹に凭れ掛った背をそのままにずるずると膝を折るかたち。

しかし、見上げた勝利者の瞳には不審の色が揺れていた。

「……どうして、刃を抜かない?」

顎をしゃくるようにして示したのは包みを解かないままだったこの手の得物。

「…………」

別に、この餓鬼に勝とうという意思などなかったから
振りかかる火の粉を払うように手合わせし、たまたまその熱に冒されただけだから
そして…

「……お前が、木刀だから」
「……え…?」

「ついでに、鬼を倒そうとしてここまできたわけじゃありませんよ…」

木の根道を登ってきたのは、この呪われた外見どおりの姿をただ一目鬼を見たいという取るに足らない好奇心ゆえ。
鬼に消される夢を見てここまできたが、まさかその力をもらったという餓鬼にさえ届かないとは。
ぽっかりと口をあけた空虚がじわりじわりと胸を支配する。
似ても似つかぬ。鬼にも、その弟子にも及ばないくだらない自分。
ゆっくりと瞳を閉じれば、世界は闇に覆われる。これよりも昏い日々を歩んできた。
足元にも及ばない、鬼の名を背負って。

それも、もう終わる。

「…さあ、倒してください」
首筋にある圧迫感が、強く深くなれば、本当の闇に落ちることはわかっている。
でも、そこはきっと今よりも、もっと暖かい闇だ。

「……断る」

微かな希望を打ち砕く声に、弾かれるように瞼を開けた。
消滅への失望が視界の闇を一掃して、いつもの不快な日常に引き戻される。
「刃を抜かない。先生を倒しにきたわけじゃない。じゃあ、お前はこんなところまで何をしにきたんだ!」
「だから言ったでしょう。『鬼に会いにきた』んですよ」

木刀を収め、ただ視線だけを戸惑いの色に染め問いただす言葉など、無意味だった。
「鬼というものがどのようなものなのか、どんな力をもつのか、どれほど…」

この身は鬼に近いのか。

吐き出した言葉は湧き出した己への嘲りに乗っ取られ、鈍く萎む。
この世界は暑くて、身体は熱くて、酷く。
……おかしくなりそうだ。

「先生の知り合い…?でもないだろう?俺とあまり年端も変わらぬ…先生なら暫くお戻りにならない。どうしても会いたいなら、期を改めて欲しい」

「…………」
おかしく、なりそうだ。

「お前の武芸の筋は悪くない。俺とも先生とも違うその腕は興味深い。また、来るといい。先生に会いたいのなら」

「…………」
得物が再度その身を狙うことがないと確信したのか、こちらに手を伸ばしてくる。
「…立てるか…?…すまなかった。…その、……いつも先生を狙う不届きな奴しか現れないから、誤解をしていたのかもしれない」
不意に、伸ばされた手を掴む。
子供特有の…いや、それだけではない熱。
おかしくなる。

「……人を、抱いたことは?」
直接的な言葉に、なんの感情も示さない瞳。
それは的確に無知を現していた。

「…ないか、まあ、そんなのはどうでもいい」
この餓鬼が、どのように普段を送ろうとそんなのは関係ない。

不意に引き寄せ、その唇を塞いだ。
あっけにとられて固まるその身体を引き倒し、抵抗を封じる。
雄の欲望を指先で殊更にゆるゆると舐り上げれば、びくりと小さくその身体が戦慄いた。

「なっ…!やめ…ろ…!」
「では…色を教えてあげましょう。…せっかくこの僕に勝ったのだから」

「ご褒美です」

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064.つないだ手 前編
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